私は自分や他人を分析するのは好きなのですが、漫画や映像作品を見ても登場人物の心情を考えることがほとんどありません。どうしても作者の心境に関心が行ってしまいがちです。
こんなことではいけないと思うのですが、それはそれとして、鳥山先生がなぜそんなに悟空が好きなのか、気づきがあったので書きたいと思います。
私はブウ編の悟空はZガンダムのアムロみたいでかっこ良くて好きなのですが、主人公になっている間の悟空はぶっちゃけあんまり好きではないです。なので、鳥山先生が悟空を好きなのは「少年漫画的に動かしやすいキャラだから」だと今までは考えていました。しかし、それならブウ編も悟飯を主人公のままにしていたはずです。ドラゴンボール大全集で、鳥山先生は「悟空じゃないと乗れない」と仰っていました。
自分が漫画を描くようになり、「自分が主人公に憑依できてないと乗れない」ことがわかってきました。さらに、作者が乗ってないと読み手にも伝わってしまい、面白くなくなってしまうことも分かってきました。
鳥山先生は90年代の漫画界でどんどんスターダムに上り詰め、神様クラスになりました。悟空が仲間を置いて強くなっていく様子とダブります。悟空のライバルたちが他の作家さん、悟空は鳥山先生の投影だったと考えると、筋が通ります。
悟空の「ワクワクする」という口癖も、現実の人間にそんな感情は起こるわけがない、と思っていましたが、自分自身が持ち込みという土俵に立つ時、ワクワクしている気持ちに気づきました。鳥山先生も週刊連載を続けながら、しかも不動の人気を維持し続けるという死闘を繰り広げ、どこかワクワクする気持ちがあって、それを悟空に投影していたんじゃないかな?と思います。
悟空の合理主義や少年漫画の主人公にあるまじきドライさも、鳥山先生が憑依していたからだと考えると理解できます。
セル編で悟空が超サイヤ人のまま普段の生活を送ることを選んだことも、働いている方なら共感できるのではないでしょうか。「ベタを塗りたくなかったから」というのもあると思いますが、鳥山先生が悟空に憑依していたことを考えると、「体が壊れるような思いで漫画を描かなくてはならないが、それでは心が壊れるので、肩の力を抜いた状態で漫画を描く自分」を悟空で吐き出していたのだと思います。
ブウ編は鳥山先生が悟飯に憑依できていなかったのが分かってしまいます。ブウ編から悟飯のキャラがブレて軽くなったのも、何とかしてこの乗れない状態を打開するための工夫だったのではないでしょうか。
DBに今でも原作派の方がいるのはわかります。アニメ版だと悟空はまるでものすごい聖人のように描かれていて、あのコレジャナイ感は鳥山先生が憑依していたかどうかの大きな差だと思います。
とはいえ、Dr.スランプの則巻千兵衛のキャラクターから、鳥山先生は本来はスケベな主人公の方が動かしやすいのだろうとも思います。ブウ編の悟空が老界王神に不純な取引を持ち掛けていたのは、鳥山先生が悟空に憑依していたから、ついやってしまったのでしょう。スケベな側面はウーロンや亀仙人で発散していたのかなと思います。
DBの原作が面白かったのは、どこか心の奥底で本能を揺さぶられる感覚があったからだと思います。